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まちかど探訪 : 信長も恐れた雑賀の人々 ~本願寺鷺森別院と雑賀衆 その1〜

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市駅周辺の歴史、文化、神社仏閣などの見どころスポットを探訪し、新たな魅力を発掘して紹介していきます。

信長も恐れた雑賀(さいか)の人々~本願寺鷺森別院と雑賀衆~

   今回探訪するのは、南海和歌山市駅から東へ徒歩5分ほど行ったところにある本願寺鷺森別院と、「雑賀孫一(孫市)」※で知られる雑賀衆を巡る戦国時代からの物語。信長にも屈しなかった雑賀衆の栄枯盛衰の歴史を辿りながら、見どころスポットを紹介していきます。

※本名は鈴木孫一(すずき まごいち)。「雑賀孫一」は、雑賀衆鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。平井孫一という名でも知られ、「孫市」と表記ゆれも見られる。

本願寺鷺森別院本堂

今も残る雑賀の名称

 和歌山市内には現在、「雑賀」とつく地名が複数存在しています。「雑賀」という地名は、現在の和歌山市西浜付近発祥と言われています。鎌倉時代以降、和歌川から西、かつ土入川から南の土地は「雑賀荘」と呼ばれる荘園でした。現在残っている「小雑賀」や「雑賀崎」などの地名はこの「雑賀荘」に由来している場合が多く、また、「雑賀」という名字にも名残が見られ、雑賀姓の名字人口は全国約5,600人のうち約1,200人を和歌山県が占めています。このことからも、現在の和歌山県には、歴史に残る「雑賀」の面影が強く残っていることがわかります。

雑賀崎の風景 ⭐近年、海沿いの斜面に家屋が並ぶ景観がイタリアのアマルフィ海岸のようだと注目を集めている

戦国時代の和歌山は共和国だった?

 戦国時代の和歌山は、「紀伊国(きいのくに)」と呼ばれ、戦国大名が統治・支配する国ではなく、雑賀・根来・粉河・高野・湯河・熊野という寺社勢力や惣国一揆は高い経済力と軍事力を擁して地域自治を行っていました。戦国時代に当時の紀伊国のような国は少なく、その珍しさから宣教師ルイス・フロイス(1532~1597)も「紀州の地には四つ五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者もそれを滅ぼすことができなかった」と述べています。
 6つの自治集団の中で、現在の和歌山市付近を自治していたのが「雑賀」であり、「雑賀惣国(さいかのそうこく)」とも呼ばれます。雑賀惣国は、さらに「十ヶ郷(じっかごう)・雑賀荘(さいかのしょう)・中郷(なかごう)・宮郷(みやごう)[社家郷(しゃけごう)]・南郷(みなみごう)」の5つのグループ(雑賀五組)に分かれていました。雑賀は京に近く戦乱の影響を受けやすかったのに加え、畠山氏など紀伊国守護は、比較的支配力が強くなかったことが、民衆の自立心を育て、「惣」による合議的政治運営が発達しました。平時は耕地や漁猟に従事し、合戦があるたびに団結して力を発揮していました。 

雑賀五組構成図(出典:『和歌山市立博物館総合案内』) 図中の「雑賀」は「雑賀荘」を指す。

    雑賀衆は、応仁の乱の後、紀伊国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長していきました。紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようです。鉄砲の製造法が伝来すると、根来衆に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、海運、貿易により、鉄砲や火薬の原料を入手することも可能であり、大量に銃を所持して優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長しました。

信長の雑賀攻め

 1568(永禄11)年に、上洛した織田信長は、戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と1570(元亀元)年に軍事的・政治的にぶつかり石山合戦が始まりました。

 元々、雑賀衆には真宗門徒(雑賀一向衆)と非門徒が混在していましたが、石山合戦開戦当初は、雑賀衆は紀伊国守護の畠山氏の要請により信長側で参戦していました。しかし、1573(天正元)年に、将軍足利義昭と信長が反目し、信長と関係の深かった紀伊守護の畠山秋髙が殺害されたことなどにより、雑賀一向衆を中心に本願寺側に加勢することになりました。その後、雑賀衆は本願寺の主力となり、兵員や物資の補給拠点であった雑賀は、信長に攻め入られることになりました。
    一方、雑賀衆の中には、本願寺を支援する雑賀一向衆を中心とした勢力に対し、この動きに反発する非門徒もおり、信長による雑賀攻めが始まった際に、本願寺側につく雑賀荘と十ヶ郷、信長側につく中郷・宮郷・南郷に分裂しました。
   信長軍は、1577(天正5)年3月1日に約10万人の軍勢で侵攻を開始、鈴木孫一の居城(十ヶ郷平井)などを攻撃するも、本願寺側の雑賀衆は雑賀川(和歌川)沿いに砦や柵を築き、防衛線を構築しました。戦線が膠着状態に陥ったことから、事態を憂慮した雑賀衆が降伏を誓ったため、信長は3月15日に赦免し、引き揚げました。

織田信長らと戦った雑賀衆が着用した兜であると言われる雑賀鉢 (鉄錆地置手拭形兜)(出典:『和歌山市立博物館総合案内』)

   しかし、同年7月には分裂していた雑賀では、本願寺側についた雑賀荘と十ヶ郷が、信長側についたものを攻め、中郷・南郷は降伏し、宮郷は翌1578(天正6)年に謝罪して赦免を受けました。
   1580(天正8)年に本願寺が織田信長と和睦したことにより、雑賀では鈴木孫一が信長の後ろ盾を得て主導権を握りました。

秀吉の紀州攻め

 本能寺の変は雑賀衆内部の力関係も一変させました。1582(天正10)年6月3日に情報がもたらされると、親信長派であった鈴木孫一は、雑賀から逃亡、以後雑賀衆は旧反信長派の土橋氏らによって主導されることとなりました。土橋氏は根来寺に縁もあり、根来寺との協力関係を強めました。また敵対していた宮郷などとも関係を修復し、根来衆と雑賀衆の協力関係が生まれました。
 その後、根来・雑賀衆と秀吉は敵対関係となり、1585(天正13)年秀吉による紀州攻めが開始されました。秀吉軍は10万人で海陸両面から攻め、根来・雑賀衆は9千余人の兵を配置して迎撃しました。
   3月23日秀吉軍は、主要兵力が出払い、ほぼ無抵抗となった根来寺を制圧しました。その夜根来寺は出火炎上し、大半が焼失しました。
   翌24日に秀吉軍は雑賀に攻め入りました。雑賀衆の内部分裂もあり多くは占領されましたが、太田左近宗正を大将になおも地侍ら5千人が宮郷の太田城に籠城しました。秀吉は太田城を囲む大規模な堤を築いて水攻めで攻略し(日本三大水攻めの一つと言われる「太田城水攻め」)、4月22日に太田城は降伏しました。こうして雑賀惣国は最期を遂げました。

太田城址跡の碑(来迎寺境内 : 和歌山市太田)

太田城水攻め堤跡(和歌山市出水)

かつて本願寺の本山であったお寺 ~本願寺鷺森別院~

 鷺森別院の開創は、寺伝によると1476(文明8)年、蓮如上人が河内国出口(枚方市)におられた頃、紀伊国名草郡清水(冷水)浦(海南市)に住む喜六大夫は、上人の弟子となって法名を了賢と名のり、村内の飯盛山に一宇の道場を建立しました。これが冷水道場(現在の了賢寺)で、鷺森別院の起源をなすものです。了賢に下された親鸞・蓮如の連座像(二尊像)は、蓮如上人による紀州開教の歴史的宝法物として現在も大切に保管されています。その後、1507(永正4)年、冷水より黒江(海南市、現在の浄国寺)に移り、ついで1550(天文19)年には、和歌浦弥勒寺山(和歌山市)に移り、さらに1563(永禄6)年、雑賀荘宇治郷鷺森(和歌山市)に移りました。それが雑賀御坊、すなわち現在の鷺森別院です。 

   1580(天正8)年に石山合戦が終結し、顕如上人が大坂本願寺から鷺森御坊に移りました。それ以来、顕如上人が貝塚に移るまでの3年有余、鷺森御坊が浄土真宗本願寺勢力の本山となりました。

親鸞・蓮如の連座像(二尊像:複製) 右:裏書,左:二尊像(出典:『和歌山市立博物館総合案内』)

   本願寺鷺森別院がある「鷺ノ森」という地名は、この地に梛の大樹があり、常に梢に白鷺がすみ、遠くから望むと深雪に埋もれる山のように見えたことから名づけられたとの伝承があります。現在は、和歌山市の中心市街地となっていますが、鷺森御坊が移ってくるまでは、人家もほとんど無い草原で、徐々に鷺森寺内が形成されていったと考えられます。
 1585(天正13)年、豊臣秀吉の紀州攻めによって、雑賀惣国は終焉を迎えました。寺伝によると、その後、江戸時代中期には堂舎の荒廃が目立ち、門徒の支援により再建に着手、1723(享保8)年に、本堂が成り、1768(明和5)年までに門徒の支援により本堂・太子堂・対面所・主殿・書院・表門等の七堂伽藍が完備しました。

「鷺森御堂西本願寺」(出典:額田雅裕 解説・柴田浩子 彩色(2009)『城下町の風景 ー カラーでよむ『紀伊国名所図会』ー』ニュース和歌山)

 この大伽藍は1945(昭和20)年の空襲によって焼失し、1948(昭和23)年、本堂が再建されその後、1990(平成2)年の顕如上人四百回忌の記念事業として、1994(平成6)年に現在の本堂に建替えられています。

今に受け継がれる雑賀衆の記憶

 令和時代の今に、戦国の頃の雑賀衆の記憶を受け継いでいる活動があります。「和歌祭」の種目の一つとして雑賀孫一の勇姿を伝える「雑賀踊」、近年、雑賀鉄砲衆や雑賀孫一の活躍の記憶を残していきたいと、市民団体が取り組む「紀州雑賀鉄砲衆」「孫市の会」の活動を紹介します。

雑賀孫一の勇姿を残す「雑賀踊」

    和歌山を代表するお祭りの一つである紀州東照宮大祭「和歌祭」に、「雑賀踊(さいかおどり)」という種目があります。雑賀踊の由来については、孫一率いる雑賀衆が織田信長軍を破り、戦勝を祝った際に踊ったという伝承もあり、室町時代後期に流行した傘鉾の周囲でスリザサラを擦って踊る風流踊に紀伊国独自の伝承が付加され、渡御行列に加えられたものと考えられています。1635(寛永12)年に徳川家光が雑賀踊を上覧していることから早い段階から雑賀踊が和歌祭の渡御行列に加わり、伝承をもとに紀伊国を代表する踊りとなっていたことが考えられます。

 その他、印南町にも雑賀衆の末裔が伝えたと言われる「雑賀踊り(ケンケン踊り)」が別の芸態で伝承され、印南祭に奉納されています。

和歌祭「雑賀踊(笹羅踊)」(和歌祭公式サイトより転載)

雑賀衆の活躍を伝える「紀州雑賀鉄砲衆」と「孫市まつり」

 1977(昭和52)年頃から、雑賀鉄砲衆の活躍を国内外に広めることを目的として「紀州雑賀鉄砲衆」の活動が開始されました。この活動は、「和歌山古式銃研究会」の会員により開始され、戦国時代の和歌山の砲術を考証復元し、国内外で、実演・活動をしています。

 さらに「雑賀衆」の本拠地であった和歌山市駅周辺の地域活性化のために、戦国最強と言われた鉄砲傭兵集団”雑賀衆”と”雑賀孫市”をもっと知ってほしいと、2005年から毎年3月下旬に、本願寺鷺森別院を会場に「孫市まつり」(主催:孫市の会)を開催しています。「紀州雑賀鉄砲衆」も鉄砲演武に出演し、武者行列、鉄砲演武、野外劇『雑賀衆の戦い』など様々な催しが行われています。

紀州雑賀鉄砲衆の演武の様子(紀州雑賀鉄砲衆ホームページより転載)

2022年の孫市まつりポスター

孫市まつり鉄砲演武の様子

■参考文献■
・額田雅裕 解説・柴田浩子 彩色(2009)『城下町の風景 ー カラーでよむ『紀伊国名所図会』ー』ニュース和歌山
・三尾功(2011)『城下町和歌山夜ばなし』宇治書店
・武内善信(2018)『雑賀一向一揆と紀伊真宗』法蔵館
・鈴木真哉(2004)『戦国鉄砲・傭兵隊―天下人に逆らった紀州雑賀衆 』平凡社新書
・和歌山市立博物館(1994)『和歌山市立博物館総合案内』
・和歌山市立博物館 (2019)特別展『雑賀衆と鷺ノ森遺跡ー紀州の戦国ー』
・孫一と雑賀鉄砲衆ガイドブック(2015)『紀伊国・雑賀の里 孫一と雑賀鉄砲衆』 特定非営利活動法人・まち https://www.wakayamakanko.com/img/pdf_saika.pdf
・「雑賀の地名と雑賀衆のかかわりは?」『ニュース和歌山』/2021年9月11日更新 https://www.nwn.jp/feature/210911nazo_saika/
・名字由来net https://myoji-yurai.net/
・本願寺鷺森別院公式ホームページ https://saginomori.or.jp/
・和歌祭公式サイト http://wakamatsuri.com/
・紀州雑賀鉄砲衆ホームページ http://saikashuu.fc2web.com/teppou/index.html
・孫市まつり公式サイト http://magoichi.fc2web.com/

◆取材記事担当:岡田水緒[和歌山大学観光学部2年]、中地雄大[和歌山大学観光学部2年]、野中亮甫[和歌山大学観光学部2年]、平井千惠[(一社)市駅グリーングリーンプロジェクト]、永瀬節治[(一社)市駅グリーングリーンプロジェクト/和歌山大学観光学部准教授]

※本記事は和歌山大学観光学部プロジェクト演習と連携して作成しました。また、関西大学・大学院 非常勤講師、和歌山歴史地理研究会会長(和歌山市立博物館元館長)の額田雅裕氏にアドバイスを頂きました。