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まちかど探訪 : 和歌山城下の外堀物語  〜市堀川 その1~

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《まちかど探訪では…》
市駅周辺の歴史、文化、神社仏閣などの見どころスポットを探訪し、新たな魅力を発掘して紹介していきます。

和歌山城下の外堀物語  〜市堀川 その1~

 今回探訪する市堀川(しほりかわ※)は、南海和歌山市駅から少し歩くと出会える小さな川です。1585(天正13)年に築城された和歌山城の外堀の一つとして開削されました。江戸時代から現在まで激動の時代の移り変わりの中、人々の営みと共に流れ続けています。

 江戸時代の成り立ちから現在の水辺再生の動きまで、和歌山のまちとともに受け継がれた市堀川の歩みを辿ります。

※地元では「いちほりがわ」とも呼ばれている。

現在の市堀川(和歌川との合流点付近)

市堀川ってどんな川?

市堀川は、和歌山市中心部を流れる内川(市堀川、和歌川、大門川、北新町川、有本川をあわせた5つの河川の通称)の1つです。和歌川との分岐点から始まり、西へと流れ堀詰橋、住吉橋、京橋、中橋、城北橋を経て、寄合橋の南で北上、和歌山市駅近くで再び西へと曲がり、伝法橋、雄橋(おのはし)、材木橋を経て紀の川と並行して西南へ流れて海に注いでいます。

内川に流れる5つの川(和歌山市水辺空間を活かしたまちづくり手法検討・調査事業報告書から転載)

城下町の暮らしの中心だった市堀川 ~江戸時代~

   市堀川は、和歌山城の防衛のための外堀の一つとして開削されましたが、舟による物資の輸送路としても使用されました。江戸時代の和歌山城の北側は市堀川(北外堀)を境にして、南岸の和歌山城(三の丸)と北岸の町人町に分けられ、京橋から寄合橋あたりまでの北岸一帯には「納屋河岸(なやがし)」と呼ばれる物資の荷上場がありました。紀の川を通じて運ばれて来た各種産物が頻繁に荷揚げされ、米問屋が集まって毎朝米のせり市が立つなど賑わいました。
   納屋河岸北側の本町1丁目から寄合橋にかけて東西に走る通りは和歌山城下のメインストリートであり、通り沿いの駿河町・福町・ト半町・寄合町の4町には富裕な商家が集まっていました。また、武家屋敷のあった南岸は、北岸より高く土塁を築き、防衛力を高めていました。現在の市堀川南岸も地盤が北岸と比べて高くなっており、土塁の跡には明治期のものと思われる青石(緑泥片岩)の擁壁が見られます。

安政2年和歌山城下絵図

「京橋御門の外 納屋河岸あたりの図」『城下町の風景』(編集=額田雅裕、彩色=芝田浩子、発行=ニュース和歌山)より

 そのほか、市堀川(北外堀)と内堀を繋ぐ屋形川(東外堀)、西の丸川(西外堀)がありました。満潮時には船を航行することができた西の丸川には、三の丸と町人町を繋いでいた湊橋と、和歌山城前で荷上げされた物資の運搬に使われていた吹上橋がかけられていました。今では川の形跡は残っていませんが、これらの橋があった場所には和歌山城史跡解説「吹上口」の説明板が立っています。

「吹上御門辺の図」『城下町の風景』(編集=額田雅裕、彩色=芝田浩子、発行=ニュース和歌山)より

外堀から市堀川へ ~明治、大正、昭和(戦前)期~

 和歌山城を囲むように開削された北外堀(市堀川)、西外堀(西の丸川)、東外堀(屋形川)、南外堀(新堀川)、真田堀(真田堀川)のうち、今も残るのは市堀川と真田堀川のみです。明治から昭和初期にかけて物資の輸送方法が舟運から陸上輸送に変わるなかで、かつての外堀は物資の輸送路としての役割を終え、このうち西の丸川、屋形川、新堀川は道路や公共施設の用地とするために順次埋め立てられました。

 市堀川は、かつては伝法川と呼ばれていましたが、1916(大正5)年の県告示により「和歌山市堀川」という名称が使われ、公式名称となりました。1929(昭和4)年発行の和歌山市統計書では川名を書く欄が小さかったためか、省略した「市堀川」と書かれています。その後その名が使われ、1965(昭和40)年に「市堀川(しほりかわ)」が正式の河川名として県から告示されています。

   内堀については、明治末期以降、北内堀が道路幅を広げるために埋め立てられて幅が半分になっており、現在も江戸時代の面影を残しているのは東内堀だけです。東内堀も大正期に埋立てが計画されましたが、1914(大正3)年、南方熊楠らが堀の存続に力を尽くし、埋立てを差し止めました。こうして守られた東内堀は今でも城郭を構成する貴重な堀となっています。

現在の東内堀(遊覧船も運行)

日本一汚い川から市民の手で再生へ ~昭和(戦後)期から現在〜

    市堀川を含む内川では、大正期以降、工場排水や生活排水が流入し、貯木場として利用されるなどにより水質汚濁が進みました。1949(昭和24)年には、和歌川下流の養殖海苔が枯死し問題となりました。このことから1950(昭和25)年に海苔養殖場への汚水流入を防ぐため、漁業者によって河川内に横断工作物「仮堰」が設置されます(2012(平成24)年に撤去)。これにより、仮堰の上流では更に水質の悪化、ヘドロの堆積が進行し、1970(昭和45)年には水質基準のBODが391.0mg/l に達し、日本一汚い「死の川」といわれるほどでした。

昭和53年頃の市堀川の状況 (和歌山県「紀の川水系 和歌山市域河川整備計画」から転載)

   このような内川の水質を改善するため、様々な事業が行われました。1963(昭和39)年には国により紀の川からの浄化用水の導入が開始されました。1967(昭和42)年には、市民団体「内川をきれいにする会」が発足し、市民への啓発活動を開始しました。現在も船上視察や各橋梁への幟の設置等によるPRを実施するとともに、地元小学生に内川の歴史と現状についての授業を定期的に行うなど、身近な環境問題について知ってもらう活動を続けています。

平成28年10月30日 内川船上視察(内川をきれいにする会HP 「近年の活動内容」から転載)

   内川をきれいにする会が設立された1967年には、県庁に内川浄化対策室も誕生しています。その後、貯木場の木材撤去を行い、1969(昭和44)年 からは和歌川の浚渫(しゅんせつ)等に取り組みました。1972(昭和47)年より和歌山市は公共下水道の整備に着手し、1994(平成6)年には和歌山市排出水の色等規制条例を施行するなど、家庭や工場からの排水対策を行いました。これらの水質改善に向けた取り組みによって、市堀川では1999(平成11)年に水質の環境基準を満たしました。1973~1983(昭和48~58)年には、和歌山県によって護岸の再整備事業が実施されました。
   1986(昭和61)年には、市堀川を活用しようという動きが市民の中でも活発化して、市堀川で市民参加のボートレースの開催や、市堀川の水辺活用を市民に提案する等の活動がありました。このようにして水辺活用の機運が高まり、当初は河川管理用通路を目的として造られた護岸上の空間は、1992(平成4)年から実施された「和歌川アクア・ルネッサンス事業」により、市民に開放する遊歩道として整備され、1998(平成10)年に市堀川遊歩道として開放されました。

「和歌川アクア・ルネッサンス事業」パンフレット一部(和歌山市水辺空間を活かしたまちづくり手法検討・調査事業報告書から転載)

市堀川の現在 ~ 水辺を活かしたまちづくりへ ~

 近年、まちなかの遊休化した建物や公共空間の利活用による官民連携のまちづくりの流れとともに、民間団体を中心に市堀川を活用する取り組みが活発になりました。まず2014(平成26)年10月に、実証実験として市堀川沿いの市営京橋駐車場で「ポポロハスマーケット@MIZUBE」が開催されました。京橋駐車場沿いの車道を1車線歩行者空間化してマーケットを開催し、市堀川ではカヌー体験が実施されました。
 2015(平成27)年9月には「まちなかFestival」の一環として、市駅前の社会実験「市駅 “グリーングリーン” プロジェクト」とポポロハスマーケットの連携により、市駅周辺とぶらくり丁周辺(雑賀橋)の間で遊覧船(市堀川クルーズ)の運航が行われたほか、市堀川でのカヌー体験、メガSUP体験、京橋駐車場ではマーケットやステージでの音楽ライブも開催されました。これらの民間の動きとともに、2015年・2016年には和歌山市主催で「和歌山城下まちなか河岸にぎわい横丁」が京橋駐車場周辺で開催され、水辺に多くの屋台が並びました。また2015年からは遊歩道のイルミネーションが開始されました。

「まちなかFestival」市堀川クルーズ、カヌー体験の様子

まちなか河岸の様子

市堀川遊歩道のライトアップの様子

   2016(平成28)年から和歌山市では、市堀川周辺を対象とした「水辺空間を活かしたまちづくり手法検討・調査事業」を実施しました。これは官民連携による「わかやま水辺プロジェクト」として企画運営され、地域の関係者、市民、まちづくり会社、行政などが和歌山の水辺の未来についてワークショップで語り合い、12の目標像が作成されました。

和歌山の水辺の未来12の目標像(和歌山市水辺空間を活かしたまちづくり手法検討・調査事業報告書から転載)

 この結果をもとに、2017年9月29日~11月5日まで、市堀川における水辺の賑わいづくりと利活用をPRする社会実験「ワカリバ」が実施されました。期間中は、京橋駐車場に拠点となる広場「MIZUBE COMMON」が設けられ、トークショーやコンサート、カフェ、物品販売、キッチンカーの出店、展示、ヨガ体験など様々な取り組みが実施されたほか、市堀川には仮設桟橋が設置され、SUP体験、京橋駐車場・ぶらくり丁(雑賀橋)間のクルーズ船の運航やカヌー体験会等も実施されました。また市堀川沿いに面した民間の飲食店の地先の遊歩道上には椅子・テーブルを並べた「水辺テラス」を設置し、オープンカフェも試みられました。

MIZUBE COMMON

社会実験「ワカリバ」の様子

    これらの動きと並行して、2017(平成29)年には京橋駐車場を「京橋親水公園」として整備するための都市計画決定が行われ、民間が中心となって進められた水辺活用の取り組みは、行政によるハード整備へと反映されることになりました。京橋親水公園は2022年3月にオープンし、水辺の憩いの場として生まれ変わりました。

京橋親水公園

    2022(令和4)年6月には、和歌山市と河川管理者である和歌山県、周辺住民の代表者、水辺の利活用を進める団体等で構成される「市堀川かわまちづくり協議会」が設立されました。この協議会では、国土交通省が推進する「かわまちづくり支援制度」の導入に向け、今後の水辺の利活用の方向性や具体的な整備手法等について検討を進め、市民等が気軽に水辺や水面に近づき、舟運や水上イベントに利用しやすい、河川空間とまち空間が融合した良好な空間形成を目指しています。

■参考文献■
・額田雅裕 解説・柴田浩子 彩色(2009) 『城下町の風景 ー カラーでよむ『紀伊国名所図会』ー』ニュース和歌山
・三尾功(2011)『城下町和歌山夜ばなし』 宇治書店
・安藤精一、五来重監修(1983) 『日本歴史地名大系 31』 平凡社
・和歌山市「和歌山市歴史的風致維持向上計画」 http://www.city.wakayama.wakayama.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/018/740/rekimachikeikaku-hennkou4.pdf
・水辺空間を活かしたまちづくり手法検討・調査事業報告書 http://www.city.wakayama.wakayama.jp/shisei/1009206/1016013.html
・紀の川水系 和歌山市域河川整備計画 https://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/080400/keikaku/seibikeikaku_d/fil/wakayamashiiki-keikaku.pdf
・内川をきれいにする会ホームページ  https://w-uchikawa.com/

◆取材記事担当:佐野穂奈美[和歌山大学観光学部2年]、仲野沙弥香[和歌山大学観光学部2年]、西寅穂花[和歌山大学観光学部2年]、古井太郎[和歌山大学観光学部2年]、平井千惠[(一社)市駅グリーングリーンプロジェクト]、永瀬節治[(一社)市駅グリーングリーンプロジェクト/和歌山大学観光学部准教授]

※本記事は和歌山大学観光学部プロジェクト演習と連携して作成しました。また、関西大学・大学院 非常勤講師、和歌山歴史地理研究会会長(和歌山市立博物館元館長)の額田雅裕氏にアドバイスを頂きました。