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百年老舗Vol.1 : 出来助本店 ~紀州徳川家に愛された鉄砲鍛冶400年の歴史 ~

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《百年老舗とは…》

   時代の流れの中でしなやかに変化を遂げながら、まちとともに歩み続ける老舗。和歌山市駅周辺にも、百年以上の永きに亘り、多くの苦難を乗り越えて事業を営んできた“老舗”と言われる商店があります。ふとしたまちかどに佇むそれぞれの商店に受け継がれてきた、老舗ならではの理念や工夫などの興味深いお話を、経営者の方々にインタビュー形式で伺いました。それらを“百年老舗”と銘打ち紹介していきます。

紀州徳川家に愛された鉄砲鍛冶400年の歴史 ~ 出来助本店~

 出来助本店は、1619(元和5)年に、初代紀州藩主徳川頼宣が紀州入りした時に、駿河から同行して創業した歴史ある銃砲店。現在の当主は12代目で、各種銃砲販売・修理、産業用火薬類販売等の事業を営みながら、和歌山古式銃研究会や雑賀鉄砲衆事務局の活動にも尽力されています。
 12代目当主で代表取締役の出来可也さんに、江戸時代から400年に亘り、お店を続けられて来られた経緯やエピソード、お店に対する思いなどのお話を伺いました。

取材風景

1.出来助本店 商いの歴史

Q. 初代紀州藩主の頃からの鉄砲鍛冶の家系ということですが、創業時の記録や当時の様子など、ご先祖について記した文献や言い伝え等は残されていますか?

   1619(元和5)年、徳川頼宣公が駿河から紀州に移る際に、一緒に紀州に移り創業したと伝えられています。創業当時の文献などは残っていません。刀は銘があるものが多く平安時代のものも残っていますが、火縄銃は銘のないものも多く、年代の判別には、科学的調査も必要となりかなり難しいです。

Q. 紀州藩主から「出來」の名字を下賜されたとのことですが、その時の記録文献や「でき」が良かったという当時の鉄砲は残っていますか? 

   1759(宝暦9)年に4代目が、紀州藩主から「出來」の名字を下賜されました。そのことを記録した文献は残っています。「でき」が良かったという当時の火縄銃は当家には残っていませんが、5代目以降の火縄銃はすべて残っています。第二次世界大戦時に約400挺金属供出し、火縄銃は2.3本しか残りませんでしたが、戦後に市中から少しずつ買い戻しています。

出来助右衛門先祖書

江戸時代の火縄銃、右は6代「出來助右衛門正章」の銘

Q. 時代の移り変わりと共に、お店の事業内容はどのように変遷して来られましたか。特に火縄銃の製造から銃販売、修理へ転換した時期や経緯などは聞かれていますか? 

 江戸時代は、火縄銃の製造販売をしていました。その頃には実践で銃を使用することが無くなりましたが、戦闘に備えて砲術を鍛錬する必要がありました。また、和歌山は山林が多く狩猟も盛んでしたので、猟銃の需要も多かったと思われます。明治時代に入り、前から弾を込める前装銃から、後装銃の洋式銃へと需要が変化し、国産の村田銃が登場しました。このような背景から火縄銃の製造は止めて、仕入れて販売、修理する事業形態へと移行しました。

Q. 戦災に遭われておられますが、古文書や古い道具、お店やご家族の古い写真などはありますか?

 第二次世界大戦の空襲の時は、徳川公から下賜されたものなど重要なものは持って逃げたので残されています。古文書や葵の紋が入った天袋戸襖まで持ち出したとのことです。

紀州徳川家から下賜された天袋戸襖(引手に葵の紋)

紀州徳川家から下賜された書

紀州徳川家から下賜された菓子鉢

 しかし、古い過去帳など大半は焼失したため、10代目である祖父が、菩提寺の協力も得て、代々の家系図を書き残していますが、没年しか判明していません。
 家系図:【初代】武兵衛【2代】武兵衛【3代】万右衛門【4代】助右衛門【5代】助右衛門包凭【6代】助右衛門正章【7代】助右衛門正優【8代】助右衛門正義【9代】重太郎【10代】良太郎【11代】良造【12代】可也(当代)

出來家家系記録(10代書)

Q. 堺・根来などが鉄砲の産地になったのはなぜですか? 

   種子島に火縄銃が入った際に、根来寺僧兵の長・杉の坊算長(津田監物)が自ら種子島に渡って火薬の製法を習い、鉄砲一挺を根来の地に持ち帰りました。その鉄砲を、根来に住む堺の鍛冶師、芝辻清右衛門に複製させたのが本州最初の鉄砲と言われています。そのため、紀州や堺が火縄銃の産地になったと考えられます。
 紀州筒は、他地域の火縄銃と比べて不必要な装飾がないので、見ればすぐに判別がつきます。例えば元目当(照準器)は、富士山の形で作られることが多いのですが、紀州では「片富士」と呼ばれる半分の形になっています。

「片富士」の元目当

2.老舗に対する思い

Q.「老舗」であることにプレッシャーなどを感じたことはありますか? また、老舗としてのプライドや魅力についてどのようにお考えですか? 

   特にプレッシャーは感じていませんが、名前より屋号である「出来助」で呼ばれることも多く、屋号で呼ばれると地域で愛された老舗としての歴史と重みを感じます。 店に長い歴史があり、場所も変わっていないので、歴史に関することなどを行政から相談されたり、寺社から問合せを受けたり、人探しの起点になったりしています。

Q. 老舗を守るために、努力されたことや苦労されたことはありますか?

   銃の所持はとても厳しく規制されています。法令を当店が遵守するのは当然ですが、お客様にも法律や正しい取り扱い方を守っていただくことが重要と考えています。購入されたお客様には、定期的に研修会にご参加いただくなど、周知徹底にも努めています。個人が法律を遵守していかなければ、店も鉄砲文化も継続することができないと考えています。

Q. 時代の変化によって廃業する鉄砲鍛冶も多かったと聞きますが、事業を継続できた理由はどのようにお考えですか?

   代々の当主が銃に詳しかったからだと思います。自分も子供の頃から機械修理が大好きでしたが、先祖代々そのような気質のようです。銃を販売するだけでなく、修理技術と部品が揃っているので、“ここなら修理してくれる”という厚い信頼があったためではないかと考えています。昔は、紀の川の上流からも多くの材木商が川を下って銃の修理のために来店したそうです。 

3.商いの原点、「見利思義」の精神で受け継ぐ400年の家業

Q. 会社として大切にされている企業理念や、仕事をする上で心掛けていることはありますか? 

   「見利思義」という言葉を大切にしています。「利益を前にしたときは、その利益が義にかなっているかどうかを考える」という意味ですが、その商売が道理に合ったものかどうかを日々考えるようにしています。

Q. 現在の事業の中で、最もウェイトが大きいのはどの部門ですか? 

   やはり銃の販売です。1955(昭和30)年前後にハンターが増加し、当時和歌山市で1600人以上の登録者がいました。これにより販売も伸びましたが、その後狩猟の獲物も場所も減少し、現在の登録者は200人もいない状況です。近年は農作物の鳥獣被害が増え、県でハンターを養成し、ジビエ肉の販売も推奨してはいますが、ハンターはそれほど増えないと思います。銃の需要が伸びない中で、最近は産業用火薬類にも注力しており、工事現場などに直接行くこともあります。

Q. 銃や弾薬は厳しく規制されていますが、どこから仕入れるのですか?また、商品に対するこだわりはありますか?

   銃は静岡や群馬にある輸入代理店から仕入れています。銃の製造は、高知の「ミロク製作所」以外はほとんど海外製です。商品のこだわりとしては、故障しないことを最優先として、軽さやバランス、発砲時の衝撃度合いなどを考慮して選んでいます。

Q. お客様はどのような方がどういう目的で来店されることが多いですか? 

   狩猟用の銃を求めて来店される方が多いです。メディアなどの影響で、最近は自分で獲ったものを食べたいという人も多く、女性のハンターも見られるようになりました。ちなみに、日本で銃の所持が認められるのは、標的射撃、狩猟、有害鳥獣駆除を目的とする場合のみです。最近は射撃大会も開催されており、主に趣味や狩猟の練習として参加される人が多いですね。

Q. 孫市の会や紀州雑賀鉄砲衆の活動もされておられますが、どういった内容の活動ですか? 

   「紀州雑賀鉄砲衆」は、和歌山県ライフル協会の鉄砲史研究部門である「和歌山古式銃研究会」の会員が、戦国時代の和歌山の砲術を考証復元、実演し、雑賀鉄砲衆の活躍を国内外に広める活動をしています。先代の父が1977(昭和52)年頃に始めたものです。使用する火縄銃や火薬は昔のままなので、火縄銃が活躍していた当時の迫力を味わうことができます。
   「孫市の会」は、戦国最強と言われた鉄砲傭兵集団「雑賀衆」の頭領「雑賀孫市」を目玉に市駅周辺を活性化させることを目的とする団体です。年1回、本願寺鷺森別院で「孫市まつり」を開催し、紀州雑賀鉄砲衆も鉄砲演武に出演しています。

「紀州雑賀鉄砲衆」の演武

Q. お店を継がれてから、一番印象に残っているエピソードはありますか?

   紀州雑賀鉄砲衆として、文化交流のために和太鼓と一緒に海外に出向き演武したことですね。1996(平成8)年にウィーン(オーストリア)のコンツェルトハウスで、1998(平成10)年にはシドニー(オーストラリア)のオペラハウスで演武をしました。荘厳なホール内で、実際に空砲を撃つことができ、海外の人々にも大変喜ばれたことが一番の思い出となっています。

ウイーン「ジャパンフェスティバル」参加証

4.家業を継ぐことへの思い

Q. 出来さんは12代目の当主をいつ引き継がれたのですか? また、家業を継ぐことに対して、迷いなどはありましたか?

   1987(昭和62)年、31歳の時に父が亡くなり、12代目を引き継ぎました。生まれた時から事業を継ぐことは決まっていて、子どもの頃から店を手伝ってきました。マイナスにとらえるのではなく、前向きに取り組んできました。 

Q. 先代からお店を引き継ぐ際に、意識したこと・努力したことなどはありますか?

   銃の販売だけでは、店を続けていくのは厳しいと考えて、先ほども触れたように、トンネル工事などに使う産業用火薬の販売を始めました。

Q. 次の後継者は決めておられますか?将来の後継者に伝えたいことはありますか? 

   娘婿が継ぐことになっています。細々とでも出来助の伝統の火を消さないように続けてほしいと思っています。現在は娘夫婦が店の隣で学習塾の経営も始めています。後継者に伝えたいことは、やはり「見利思義」ですね。道理に合っている商売なのか心がけてほしいと思っています。

左から長女の香雅理さん、可也さん(12代目)、娘婿の明さん(13代目)

5.城下町とともに創業500年へ ~歴史あるまちへの思い~ 

Q. 長年和歌山市駅周辺でお店を続ける中で、まちが変わったと思うことはありますか? 

 市駅周辺は元々城下町で賑わっていたのですが、現在は人の流れがあまりありません。最近はキーノに来る人が増えたからか、店先にある「紀州藩御用鉄砲鍛冶工場跡」の史跡銅板の写真を撮影に来る人が増えました。

「紀州藩御用鉄砲鍛冶」の銅板

Q. 今後市駅周辺のまちがどのように変わっていってほしいと考えられていますか? 

   市駅GGPの活動などを通して、市駅を中心に賑やかになるように頑張ってもらいたいです。和歌山市と連携して歴史的な町をアピールするとよいのではないでしょうか。例えば、この町は鍛冶屋が集まっていたので「東鍛冶屋町」と言いますが、城下町の名残のある多くの町名が残っています。その町名を電柱に掲げるなどの工夫はできると思います。
 
Q. 最後に、インタビューを読む方へのメッセージがあればお願いします。 

   鉄砲鍛冶の歴史を伝える史跡銅版がありますので、城下町を散策しながら立ち寄ってください。

🔶有限会社出来助本店所在地等
■所 在 地    〒640-8036 和歌山市東鍛冶屋町53
■お問合せ 073-423-0726 
出来助本店ホームページはこちらから

店舗外観

◆インタビュー日時:2021年12月15日

◆聞き手:廣野碧唯[和歌山大学システム工学部3年]、樫本凱斗[和歌山大学経済学部2年]、平井千惠[(一社)市駅グリーングリーンプロジェクト]、永瀬節治[(一社)市駅グリーングリーンプロジェクト/和歌山大学観光学部准教授]

※本インタビューは和歌山大学わかやま未来学副専攻のプログラムと連携して実施しました。